タイと日本のジェンダー観は、それぞれが独自の歴史、文化、宗教、経済的背景に深く根ざしています。表面的な「寛容さ」が語られることの多いタイですが、その裏側には複雑な伝統や現実が隠されており、単純な二元論では語り尽くせません。本記事では、タイのジェンダー観を日本と比較しながら、その多層的な実態を深く掘り下げていきます。ニューハーフ(カトゥーイ)に寛容とされる背景から、家庭内に残る家父長制的な側面、そしてLGBTQ+に対するリアルな意識まで、日本社会に生きる私たちが異文化から何を学び、自国の「当たり前」を相対化できるのかを探求しましょう。
タイのジェンダー観を紐解く二つの顔|「寛容さ」と「家父長制」の共存
「微笑みの国」タイが、特にニューハーフ(カトゥーイ)と呼ばれるトランスジェンダー女性に対して寛容であるというイメージは広く浸透しています。しかし、その一方で、家族や社会の根幹には伝統的な家父長制的な価値観が色濃く残っているという声も聞かれます。この一見矛盾する二つの側面が、どのようにタイ社会で共存しているのでしょうか。
ニューハーフ(カトゥーイ)に寛容な理由:仏教と土着文化の影響
タイ社会がニューハーフ、ひいては多様な性自認に対して比較的開かれている背景には、いくつかの歴史的・文化的な要因が深く関係しています。
仏教の輪廻転生と「タンブン(功徳)」の思想: タイの主要な宗教である上座部仏教では、輪廻転生という考え方が社会全体に浸透しています。現世での性自認や体の性との不一致は、「過去世でのカルマ(業)」の結果であると捉えられることがあります。これは、本人の意思で変えられない宿命として受け入れられ、差別しにくい土壌を生み出す一因となっています。 また、「タンブン(功徳を積む)」という行為も重要視されます。他者への慈悲や寛容さは功徳とみなされ、性自認の多様な人々に対しても、その存在を受け入れることが良い行いであるという意識に繋がります。そのため、性自認の多様性を一方的に否定したり、悪と断じたりする風潮は、少なくとも表面的にはあまり見られません。
古くからの「第三の性」の概念: タイの歴史や民間伝承には、男性でも女性でもない「第三の性」の存在を認める文化が古くからありました。タイ語には伝統的に「プーチャイ(男性)」「プーイン(女性)」に加え、「カトゥーイ」という言葉があり、これは体の性と異なる性自認を持つ人を指します。この言葉自体は時に侮蔑的に使われることもありますが、その存在が社会の中に明確なカテゴリとして認識されてきた事実は、多様な性自認に対するある種の受容性を育んできました。 例えば、タイの伝統芸能である「リケー」の演者の中には、性別を超えた役を演じる人々がいましたし、現代でもミス・ティファニー・ユニバースなどのニューハーフによる華やかなショービジネスは、タイの観光業において重要な役割を担っています。これらの存在は、社会の多様な性を「見慣れたもの」として受け入れる感覚を醸成してきました。
「マイペンライ(気にしない、大丈夫)」精神: タイの人々の持つ「マイペンライ」というおおらかな精神も、多様な性自認を持つ人々を受け入れる土壌となっています。細かいことにこだわらず、他人を尊重し、和を重んじるこの精神は、他者の性自認や表現に対しても、過度に干渉せず、受け入れる態度に繋がりやすいのです。
なぜ伝統的な家父長制も根強いのか?:僧侶の性別規定と儒教的価値観
一方で、タイ社会、特に家庭内では、伝統的な家父長制的な構造や価値観が依然として根強く残っています。これは、寛容さのイメージとは異なる、もう一つの側面です。
上座部仏教における性別役割分担の影響: タイの仏教は、男性が僧侶になることで功徳を積むことが重視される傾向があります。特に、出家して修行することは最高の功徳とされ、僧侶になれるのは男性に限られています。この仏教の慣習が、男性を精神的な面で優位に置く構造を生み出し、社会全体、ひいては家庭内における性別役割分担の基盤となっています。女性は僧侶の世話や布施を通じて功徳を積む役割を担うことが多く、間接的に男性を支える立場にあると見なされがちです。
儒教的な父系社会の価値観: タイには、中国系移民が多く住んでおり、彼らがもたらした儒教的な価値観も、家父長制を強化する一因となっています。儒教では、男性が家族の長として経済的、精神的な支柱となり、先祖を祀る役割を担う父系社会の思想が色濃く反映されています。これは、特に財産の継承や家族の決定権において、男性が優先される傾向に繋がっています。
経済的な役割分担と伝統的な規範: 伝統的に、男性が主たる稼ぎ手として外で働き、女性が家事や育児、家族の世話を担うという役割分担が根強く存在します。都市部では女性の社会進出が進んでいるものの、地方や年配の世代ではこの伝統的な規範が色濃く残っており、家庭内での男性の権威が保たれているケースが多く見られます。家族の重要な決定は男性が行い、女性はその意見を尊重するという構図が、今なお見受けられるのです。
このように、タイ社会では表面的な多様性の受容と、内面的な伝統的価値観が複雑に絡み合い、共存しているのが現状です。
日本のジェンダー観とLGBTQ+の現状|タイとの決定的な違いとは?
それでは、日本社会のジェンダー観やLGBTQ+に対する意識は、タイとどのように異なり、どのような課題を抱えているのでしょうか。
「普通」を重んじる日本の同質性志向と性に関するタブー
日本社会のジェンダー観を語る上で避けて通れないのが、「普通」であることへの強い執着と、それによって生じる同質性志向です。
同質性志向と「普通」の圧力: 日本は、集団の和を重んじ、周囲と「同じ」であることに安心感を覚える文化が強いとされています。この「同調圧力」は、個人の個性や多様な生き方を尊重するよりも、「普通」の枠に収まることを暗に求める傾向があります。性別においても、「男性はこうあるべき」「女性はこうあるべき」という固定観念が強く、そこから逸脱する人々は「変わった人」「異質な人」として見られがちです。 特に性的少数者(LGBTQ+)にとっては、この「普通」の圧力は大きな壁となり、カミングアウトのしづらさや、自分らしく生きることへの躊躇を生み出す要因となっています。
性に関する議論のタブー視と「家制度」の影響: 日本では、公の場で性に関する話題をオープンに議論することが長らくタブー視されてきました。性教育も限定的で、多様な性に関する知識が社会全体に広まりにくい状況がありました。 また、明治時代に確立された「家制度」は、男性を家長とする家父長制を強く推し進め、日本のジェンダー観に深い影響を与えています。この制度は戦後廃止されましたが、その中で培われた「男尊女卑」や「性別役割分担」の価値観は、現代社会にも無意識のレベルで残り続けています。例えば、女性が結婚後も旧姓を維持しにくい、女性の管理職登用が進まないといった課題は、その名残とも言えるでしょう。
遅れる法整備と社会の変化:アライ活動と多様性への認識
日本は、法整備の面で国際的に見てLGBTQ+への対応が遅れていると指摘されることが多いですが、近年では社会の変化の兆しも見えています。
法整備の遅れと国際的な批判: 主要先進国の中で、同性婚や同性パートナーシップ制度を法的に認めていない国はごく少数であり、日本もその一つです。国連の委員会からも、日本政府に対し性的指向や性自認に基づく差別を禁止する法整備を求める勧告が度々出されています。戸籍上の性別変更要件の厳しさなども、当事者にとっては大きな負担となっています。 これにより、同性のカップルは異性カップルが享受できるような様々な法的保護(医療機関での面会、相続、住宅契約など)を受けられず、また職場や社会生活での差別も依然として存在します。
地方自治体からの変化とアライ(支援者)の増加: 国の法整備が遅れる一方で、地方自治体レベルでの動きは活発化しています。東京都渋谷区を皮切りに、全国の多くの自治体で同性パートナーシップ制度が導入され、LGBTQ+のカップルが行政サービスの一部を受けられるようになっています。これは、社会全体での多様性への認識が高まりつつあることを示す重要なサインです。 また、企業内でのLGBTQ+フレンドリーな取り組み(SOGIハラスメント研修、同性パートナーへの福利厚生適用など)も増えており、当事者を支援する「アライ」と呼ばれる人々も増加しています。メディアでのLGBTQ+の可視化も進み、これまで語られにくかった多様な性のあり方が、少しずつではありますが、社会に受け入れられ始めています。
タイと日本のジェンダー観比較から見えてくる「多様性」の本質
タイと日本のジェンダー観を比較すると、一見するとタイの方が多様性に対して寛容に見えるかもしれませんが、その「寛容さ」が持つ意味合いや、それが生み出す社会の実態には、複雑な側面が存在します。
表面的な寛容さと構造的差別の間にあるギャップ
タイの「ニューハーフへの寛容さ」は、しばしば観光客を惹きつけるためのショービジネスとして利用されてきた側面があります。カトゥーイのパフォーマーたちは華やかな舞台で活躍する一方で、社会の主流からは隔離され、経済的・社会的に脆弱な立場に置かれているケースも少なくありません。
観光産業による「多様性」の消費: タイの観光産業は、ニューハーフショーなどの存在を大々的に宣伝し、多様性をアピールすることで世界中の観光客を惹きつけてきました。これは経済的な恩恵をもたらす一方で、特定の性的マイノリティの存在を「見世物」として消費し、ステレオタイプ化を進める危険性もはらんでいます。彼らが社会のあらゆる分野で平等な機会を得られているかというと、現実には厳しい側面があります。
法的な保護の不十分さ: ニューハーフに対する社会的な受容はあっても、法的な保護や差別禁止の枠組みはまだ不十分です。例えば、性別適合手術を受けたとしても、身分証明書の性別変更は困難な場合が多く、これは就職や結婚、医療アクセスなど、日常生活の様々な場面で不利益を生じさせます。表面的な「マイペンライ」精神の下で、構造的な差別が見過ごされがちであるという現実があるのです。
経済・観光産業がジェンダー観に与える影響
経済発展、特に観光産業の成長は、タイのジェンダー観に大きな影響を与えてきました。ニューハーフのパフォーマーが観光業で活躍することで、彼らの存在が社会に「見慣れたもの」として受け入れられる一方、その経済的な側面が、ある種の「寛容さ」を促進してきたとも言えます。しかし、これは「経済的利益になるから受け入れる」という条件付きの受容であり、深い理解や真の平等を伴うとは限りません。
日本においても、グローバル化の進展や労働人口の多様化に伴い、企業がダイバーシティ&インクルージョンを経営戦略として掲げるケースが増えています。経済的な合理性が、多様性を受け入れる大きな推進力となっている点は、両国に共通する側面と言えるでしょう。ただし、その動機が「企業イメージの向上」や「人材確保」に留まることなく、真の価値観変革に繋がるかが問われます。
私たちがタイのジェンダー観から学ぶこと|未来への示唆
タイのジェンダー観と日本社会の現状を比較する旅は、私たちに多くの示唆を与えてくれます。異文化の「寛容さ」は、必ずしも私たちが期待するような「平等」や「深い理解」と同義ではないということを、タイの事例は教えてくれます。
異文化理解を深めるための多角的視点
タイのジェンダー観が示すのは、文化、宗教、経済、そして国家の政策が、ジェンダーに関する考え方に極めて複雑な影響を与えるということです。表面的な現象だけで異文化を判断するのではなく、その背景にある歴史的・宗教的・経済的要因を多角的に読み解くことが、真の異文化理解には不可欠です。
例えば、仏教の「輪廻転生」や「タンブン」という概念が性自認の多様性受容に繋がった一方で、男性僧侶のみという規定が家父長制を強化したという二面性は、単一の宗教が持つ多様な解釈と社会への影響を示しています。これらを知ることは、私たちの「当たり前」を相対化し、見過ごされがちな課題や潜在的な可能性を浮き彫りにする鏡となります。
自国の「当たり前」を相対化し、多様性を尊重する力
タイのジェンダー観を知ることは、私たち自身の社会、特に日本のジェンダー観を深く見つめ直すきっかけとなります。
「普通」という枠組みの再考: 日本社会が抱える「普通」であることへの圧力は、多様な性自認を持つ人々だけでなく、性別役割分担に縛られる多くの人々にとっても生きづらさを生んでいます。タイの事例は、必ずしも法的な平等がなくとも、ある種の「受容」が存在しうることを示しますが、同時にその受容が完全な平等ではないことも教えてくれます。私たち自身の「普通」という枠組みを問い直し、個人の尊厳を尊重する文化を醸成する重要性を改めて認識するべきです。
真の多様性とは何か?: 真の多様性とは、画一的なジェンダー観に囚われず、様々な生き方や価値観、そして矛盾や複雑さをも含めて理解し、尊重する姿勢を指します。それは、表面的な「寛容」に留まらず、法的な平等、社会的な包摂、そして個人のエンパワメントを伴うものでなければなりません。
結論:ジェンダーは、国境を越える鏡だ。タイの姿は、私たちの姿を映し出す。
タイのジェンダー観は、水面に浮かぶ氷山の一角のように、多様な性への寛容さという輝かしい側面を見せる一方で、その水面下には伝統的な家父長制という巨大な塊が隠されています。この複雑な二面性は、文化、宗教、経済といった様々な糸が複雑に織りなされた、まさに色とりどりの織物のようなものです。
この異文化を旅することで、私たちは自国の「ジェンダーの道」を改めて見つめ直し、私たちの心の地図を書き換えることができます。タイの事例は、ジェンダーが単純な善悪で判断できるものではなく、常に「伝統と革新」「個人と共同体」「表面と深層」という普遍的なテーマの間で揺れ動いていることを教えてくれます。
今日から、あなた自身の身の回りにある「普通」を問い直し、多様なジェンダー表現や性自認を持つ人々に対して、まずは「知ろうとすること」から始めてみませんか? 異文化理解を深める旅は、必ずや私たち自身の社会をより豊かで包括的なものに変えていく一歩となるでしょう。
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